2013年1月10日木曜日

水晶の瞳:マフィンを抱く女

東西線落合駅近くの山手通り沿いにある中華店、もしくは新大久保にあったアジア系の屋台村かの記憶は定かではないが、僕がYukoさんに初めて会ったのは、大気が淀む程暑く全身の筋肉が鉛と化したかのような倦怠感漂う鬱陶しい真夏であった気がする。四川麻婆豆腐の刺激的な辛みが身体中の血管を焼き尽くしていくような痛みと、トムヤムクンの非日常的な辛みによって全身の毛穴が開いて一斉に汗が噴き出してくる記憶が混在し、今となってはどちらがはじめであったかなんてもうどうでもいいくらいな程ではあるのだが、とにかく辛さと暑さが共闘し僕の身体中から水分を奪い去る事に懸命に励んでいた夏であったことは確かである。
たぶんその時、Yukoさんとは共通の友人であるXXXという人を介しての紹介であったと思う。第一印象は目がクリクリした少女のように可愛らしい人だなと感じていたかもしれない。純粋にXXXとの知人であるということで、勝手に僕がXXXなイメージ像をYukoさんに作り出していたのかもしれなかった。そうこうする内に共通の話題などでお互いが打ち解けはじめた時、XXXがYukoさんにXXXして、僕にXXXとなった。その僕の哀れな姿を見るやいなやYukoさんが歓喜の涙とも、非難に満ちた苦渋の涙か分からない、鼻から滴り落ちる粘液にも似たXXXを唇元まで垂らしながら、「とてもXXXだから、もうXXX!!」とYukoさんは絶叫した。そのあまりにもの突然な変貌ぶりに、僕は唖然として口をあんぐり開け、その何とも言えない間をどうやり過ごそうかと思案した。顔の表情では平静さを装ってはいたものの、全身から大量の汗が吹き出して来るのを僕は感じた。それは絶対に四川麻婆豆腐やトムヤムクンによる辛さによって出た汗でなく、見てはいけないものを見てしまった事による恐怖心から出た冷や汗であったに違いない。なぜなら僕は一瞬で身体が凍り付いてしまったかのような悪寒を感じたからである。しかしYukoさんはそのような僕の戸惑い等は気にするそぶりもなく、急激にテンションが上がってしまったのか両手をワナワナと震わせ始めるといきなり予備動作のないラリアットを僕に叩き込んできた。なんとなく気配を感じていた僕はその場にかろうじて踏みとどまり、ぐっと痛みをこらえた。Yukoさんは店内の照明が反射してより一層キラキラと濡れた瞳を見開きながら何かを期待するかのような眼差しを僕に差し伸べてくる。僕はやれやれと思いながら、ゆっくりと右腕を胸元まで水平に引き上げ、全神経を集中させるべく唇をきつく噛み締めながら逆水平チョップをいつでも叩き込める体勢へと身体の状態を整えた。そしてYukoさんを睨みつけながら決心したように大きく息を吸い込んだ途端、僕は一瞬で全身の力を抜き、既に鬼のような形相になっていた顔の表情を緩め、今まで子猫ちゃんにも見せた事がないような素敵な微笑をYukoさんへと投げかけた。「俺は女とは戦わない主義なんだ。。」一撃をもらう覚悟を極めていたYukoさんは急にキョトンとした表情になり、その大きな目を今まで以上に大きく見開きながら、打ち返してこない軟弱な男に対する侮蔑ともこれから終わりのない戦いが続いたかもしれない恐怖感から不意に解放された安心感からか、XXXを激しく濡らしながらXXXをXXXした。Yukoのその生い茂った花園の奥に眠るXXXがゆっくりとXXXした。その瞬間、Yukoは「XXXXXXXXX!!!」と立ち上がり、ちょうど八宝菜を運んできた女性店員から料理をひったくるといきなり頭からひっかぶった。Yukoの顔面をウズラと白菜とキクラゲがゆっくりと滑り降りて行く。その様子を僕たち全員が唖然として見守ってる。

今度のクリスマスで日本に来てちょうど3年目、このお店で働きはじめて丸年になるのだと、春燕チュンイェンは急に思い出した。自分の運んだ八宝菜をひったくるようにして頭からかぶり、あんかけまみれとなって恍惚とした表情を浮かべた女の顔を見て、河北省の農村に残してきた父の事を思い出した。急速に伸びはじめた爪が身体中を覆ってしまう謎の奇病に冒された父は今頃どうしているのだろうか。春燕が村を飛び出た時は既に両腕の肘関節まで爪で覆われていた。そのエナメル質の光沢に春燕はよく自分の顔を写し出し、顎のラインを整形したらどう私の顔が変わるのだろうか、私の人生そのものもどう変わって行くのだろうかとよく思案した。鏡を買う余裕もなかったし、一体村のどこに行けば鏡を買う事が出来るのかさえも分からない程の辺鄙な村であった。
春燕は急に父に会いたくなった。家出同然で飛び出してしまってから一度も父と連絡を取っていない。もしかすると今頃はもう全身が爪で覆われて、甲冑を着た兵馬俑の置物のように部屋の片隅で転がっているのかもしれない。
春燕は気が付いた時にはもう店の外に立っていた。そして無意識の内に、あのあんかけまみれになっていた女のバックを右手に掴んでいた。そのすれ違い様、長身で長髪で顔が覆われて表情の見えない男が、カタヤキソバ、と注文しながら店に入って行った。春燕は反射的に厨房へと注文を伝えに戻りそうになったが、すぐに我に帰り油の染み付いたエプロンを外すと路肩へ投げ捨てた。火を付けっぱなしにしたままの焼きかけの餃子も気になったが、それ以上にあの女が持っていたバックの中身が気になった。早歩きで高円寺駅に向かいながらそのバックの中を春燕は調べてみた。ごく普通の女性が持つような財布とiPhoneが入っていた。iPhoneを取り出し試しに起動ボタンを押してみた。案の定パスワードでロックされている。春燕は試しに[ 2 1]と打ち込んでみた。ロックが外れた。日本人は所詮、エロとお金と子猫のことしか頭にないのだ。政治的な思想等持ち合わせていない、ましてや宗教感なんてもってのほかだ。春燕はiPhoneをいじりながら久しく封印していた日本人に対しての嫌悪感が浮かび上がって来るのを感じた。女の名前は「アンドーユウコ」というらしい。一度聞いたら忘れられない程印象的でなく、かといって次に会った時には思い出せない程複雑な名前でもない。アンドーユウコ。これが私の新しい名前。春燕は心に決めた。
空気が激しく揺れた。春燕は目眩かな、と思うと同時に背後から大爆発音が聞こえた。熱を帯びながらもどこか優しげな温風に背中を押され春燕は少しよろめいた。後ろを振り帰るとちょうど春燕が歩いてきた辺り、先程まで働いていた中華屋の辺りから大きな炎と黒煙が立ち昇っていた。やはり付けっぱなしにしたコンロの火が何かに引火してしまったのだろうか。浮かび上がってきた後悔にも似た罪悪感を感じるよりも早く、二度目の爆発音が聞こえた。元来た道を再び振り返ると、渦巻いて沸き上がる炎の中から何か黒く丸い物体が中空へと飛び出して行った。よく見るとあのアンドーとかいう女の頭部であった。くりくりした目とあんかけをかぶった光沢感は間違いない。続いてその女の上腕部と思われる二本の腕が頭部を掴もうとするかのように追いかけて行く。またまた続いてアンドーの下半身と思われる両足が自分の頭部と両腕を追いかけるように中空をパタパタと駆けながら天高くへと昇って行った。
これであの女の身元がバレることはしばらくないであろう。当分の間、私はアンドーユウコとして生きて行くことができる。少なくともアンドーの財布に入ってる現金とカードでなんとか父に会いに行く事は出来るであろう。春燕改め新アンドーユウコはそう思うとなんだか気持ちが楽になって来るのを感じた。そして軽くスキップしながら旧ユウコの財布に入っていたSuicaを使って高円寺駅の改札口を通り抜けた。